(間違った)論文の楽しみ方。

 前野ウルド浩太郎さんの、『孤独なバッタが群れるとき』という本を読んでいる。
 「バッタ博士」の異名を持つ第一線の研究者が、サバクトビバッタの生態に関する自らの研究をまとめた本である。
 サバクトビバッタとは、トノサマバッタと近縁の「相変異」を行うバッタの仲間である。個体群密度が高くなると、「群生相」と呼ばれる機動性の高い形態に変異し、集団で周囲の植生を根こそぎ食べ尽くすような行動をとる。アフリカのサハラ砂漠周辺でたびたび大発生し、現地の農業に多大な影響を与えてきた。
 前野さんは、大発生を抑止するため、バッタの「相変異」に関する研究をされている。
 その研究内容そのものもたいへん興味深いのでぜひ読んでいただきたいのだが、今日は、それとは違う話をする。
 この本を読んでいて思いついた、学術論文の新しい読み方について書きたいと思う。
 なお、それは研究者向けの読み方ではない。研究者を目指す学生は、今まで通り、睡魔の召喚魔法にもひとしい精読をしっかり行っていただきたい。ここに書くのは、娯楽に飢えている一般の人向けの読み方である。
 思いついたきっかけは、ある、常軌を逸した実験の記述を読んだことだ。
 サバクトビバッタは、個体群密度によって「相変異」すると書いた。その「相変異」に、「他個体の接触刺激」がどれほど関与しているかを調べるために、前野さんは、ある実験を行っているのだが、その内容がぶっとびだった。
 それは、「手に持った雄のバッタで、実験対象となる雌のバッタを3時間こすり続ける」という実験。
 バッタの生理に合わせて室温31℃に設定された実験室の中で、手動で3時間、バッタをこする!
 読み間違えたのかと思ったけれど、見直してもやっぱり間違いなく、そう書いてあった。
 体罰と見紛うばかりの実験である。小学校の理科の先生が児童にやらせたら、間違いなくPTAからクレームがつくだろう。
 私だったら、研究室から逃亡する。
 前野さんは、そんなことを、たった1人で決行したのである。
 ド変態か。
 そう突っ込まざるをえない実験だった。
 もっともさすがに辛かったようで、本には前野さん自身の泣き言が綴られている。

 想像してみて欲しい。いい年したおとながバッタをバッタでこすっている姿を。さぞかし滑稽だろう。だが、あなたの抱いた私が笑顔でバッタをこするほがらかなイメージとは裏腹に、笑っていたのは足腰だけだった。この頃、大量に飼育中だったので、普段ならエサ換えが終わった後は精気を失い椅子にもたれこんでグッタリとデスクワークしているところを、すぐに実験の仕込みをして、再び三時間、常夏の飼育室に立って不屈の作業。疲労困憊のあまり鬼の形相でバッタをこすっていた。

 研究者の道をはなから選択肢に含めていなかった私は、「やっぱつきつめると大変だよな」と思いながらこのくだりを読んでいた。でも、大学で「研究」というものをかじり、学術論文を読み込んだ経験もある学士は、ここであることに気づいてしまう。
 これ、成果が発表された論文ではきっと、「3時間、バッタをこすった」ってしれっと書いてあるだけなんだろうな、と。
 学術論文は、データとそこから論理的に導きだされる考察がすべて。実験者の感想など入り込む余地もない。
 だからきっと、「これをした」という事実だけが、淡々と書かれているに違いない。
 そして、明らかに常軌を逸した実験が、淡々と、さも当たり前のことのようにしれっと書いてある論文の文面を想像して、笑ってしまった。
 これは……シュールだ。
 おもしろい、おもしろいぞ。
 彼の論文が読みたい!
 いや、彼のものだけではないかもしれないのだ。他の論文でも、しれっと書かれているから読み飛ばしてしまった(←よい子は真似しない)ものをよく読んだら、とんでもない実験だったということがありうるかもしれないじゃないか……。
 それに気づいたら、「論文」というものを見つめる目が変わってしまった。
 論文というのは、ひょっとして研究者の「変態ぶり」を観察するのに、うってつけのテキストなのではないか。
 しかも、「常軌を逸したようなことをさも当たり前のように淡々と書いている」という点で、読み物のクオリティとしてかなりハイレベルなのではないか。
 そんな、失礼極まりない発想を得てしまったのである。 
 少しの英語力と、想像力で、楽しい読書が、できるかもしれない。
 そう思った。
 無論、彼らの情熱的な献身によって科学は発展しているということ、それに対する敬意を忘れてはならないが。
 私はこれから、暇なときにはフィールド系の論文を読んでみようかと思っている。
 イグノーベル賞を獲った研究なんか、いいかもしれないね。
 みなさんもぜひ試してみて欲しい。

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